燃える男 (集英社文庫)

燃える男 (集英社文庫)


いちいち真剣に受け止めてたらいちいち感情移入してたら目にしてなんらかの感想を持ってしまったら気が狂ってしまうほどにそれは溢れているから生きていく為にはごはん食べておいしいと思ったり映画見て喜んだり、そういうことを普通にする為にはそれに目を向けちゃいけない。視界に入っても地面を見るとか壁を見るとかそんな心境で、無感動でなければいけない。
ピクニック場面のピナと脱出を拒んだシスターが痛々しすぎて、だから多分、対比としてオーストラリアの女の人とナディアの言葉が重い。「駄目なものは駄目でしょう!」「そいつらを皆殺しにして、クリーシィ」
かなりとんでもない小説だ。入口の選択肢は3つ。良しとするか、しないか、無関心か。無関心を選べば生きていける。残り2つのどちらかを選べば5割の確率で死ぬ。つまり関心を持てばコイン裏表で死だ。そういう小説だ。でも、そんなん駄目だろうっつって加速していく。生きる為に良しとした人全否定でどんどん加速する。
「あなたが誰にもあげなかったものを俺にくれ。俺はそれが欲しいんだ」って神に願う最初の引用がばりばり効く。神は何もかも持っている。っていうか何もかもであるのが神で、人は神に願うとき何かしら善的なものを願う。それ以外。不善だとしても、それ以外。不善を願う人間が想像もしないような神の備えた不善の残り、この世で願われた悪の残り、誰も願わなかった悪の悪を俺にくれという願い。
ピクニックのピナ「考えたって分からないよ」、シスター「全ては神の意志です」、オーストラリアの人「駄目でしょう?」、ナディア「全員殺して」。この全員のセリフ、というか考えが映画に無かったような気がする。なんで無かったんだろう。
惜しむらくはクリーシィばりに強力な敵がいないこと、と解説に書いてあって、なんだそれ、と思ったものですが昨晩。今なら分かる。上記4人、そしてクリーシィに匹敵する考えがはっきり提示されてないことだ。マフィアがそこまで書かれてないことだ。小さな子供を食い物にすることは、しないことに比べてなんら後ろ指を差される事はない。俺は全く恥じない。むしろ立派に生きていることを誇る、と、そういう敵だろう。強度は等しい3つの選択で良しとした敵だ。いやだって、これ読んで思う。アメリカンな映画見てて思う。ガンスリンガー・ガールとか読んでみて思う。ブラック・ラグーンのアフマド?敵が敵である理由、それはクリーシィ的な怒りでないとは言えんでしょう。なんでこう世界中から敵と悪とされてそれでも存在しうるかって、支持する人がいるかって、イタリアでこの小説で頑張れクリーシィとの声が沸きあがったのと全く同じでしょう。全部反転するよ。「それは許せない」「皆殺しにして」
俺は伊藤計劃って人が好きでこの小説読んだってのもそうだけど、同じくらい浅井ラボって人も好きで、なんでかってされど罪人は竜と踊る II 灰よ、竜に告げよ 、具体的にはこの2巻の終わり方、ていうかレメディウス(あの巻読んで一生ついてくと決めた)。今。今すぐに、全てを。レメディウスの怒りとクリーシィの怒りは完全に同一、アメリカン映画におけるイスラムーな過激派とされる人も一緒。
「駄目なものは駄目よ」「そいつらを皆殺しにして、クリーシィ」
例えばたまーに話題になってたけど誤爆とか。どうすかね。数年後に。10数年後に。それは許せない。絶対許さない。やったやつら許せねえ。全員死んでしまえ。そう思ってる人今ものすっごい一杯いると思うね。
でもベトナム人がテロリストになったとか聞いたことない。不思議。いやいや。日本人もか。赤軍敗戦関係ないだろ。直結的には。ていうか。
なんだろう。宗教か。
家族関係恋愛関係なのか。
クリーシィ的な人を最初に知ったのはマスター・キートンのアンゴラの白い豹だったんかなー。小学生のときに。で、やっぱりクリーシィ的な怒りを知ったのももしかしてマスター・キートンか。ドイツの美術館(博物館?)に勤めてる眼鏡かけた男の人の話と、新聞記者が活躍する元IRAの女性闘士でピアノ教師の女性が殺される話。似てたような。似たようなヴェンジェンス。
この手の話でさ。死んだ人間はそうは思わなかったんじゃないかってよくあるけど、そう思ったんじゃないの?って意見を排除するの良くない。ピナは今の自分をどう思うだろうってクリーシィ一切思わないもんね。そんなこと書いてねー。なんて薄っぺらい。俺は許せない。俺は許せない。それだけ。傍聴席にいる遺族はなんで犯人を殺しにいかないのかってたまに思う。
いや不穏な話ですよ。映画が後半の意見を排除したのも分かる。それでも魅力的なとこがほんと不穏。
極限まで行ったら命の取り合いだけど、何かを選択すること、それは別の何かを切り捨てること、その別の何かを選んだ人を切り捨てること。そういう覚悟。俺に殺されたくなかったら、俺を殺すなら俺以上の覚悟を、選択に対する覚悟を。見続けたら気が狂うものを見ることを選択する覚悟、それをなんとかしようとする自らの命をテーブルに置いた覚悟を。