批評少女と透感膜

批評少女はセックス中にどんな様態を示すのか、という世界的に環境的に経済的に石油とかテロリストとか諸々かなりどうでもよいことを考えるに、株とか、やはりそれは文学少女を置いては語れない。似か寄る、ないし無視しては語れない。

なぜか。

批評少女が声を漏らすとしたらそれは字義的に彼女の意志では有りえず、認めず、手当たり次第に自らを説得する答えを導き探しそれを突破口に、もしも目を開くとしたら目の前の男性を見つめる為ではないだろう。有り得ない。その彼からはきっと目を逸らす。口から漏れた母音は肺のせい、撥ねた身体は不随意反応、正常位よりもバックを好み駅弁なら密着を是とする彼女は天井ないし枕シーツないしその部屋その空間の様相のみを自我を保つ為に必要としてしまう。彼女は手繰り寄せる。存在を賭けて。肌を寄せる男性、彼の匂い、重さ胸板存在感圧迫その他全ては二の次に置かれ、それらを除いた周縁のものこそが彼女の体験を規定する材料となり確認の為の糧となる。だからこそ彼女は表現する。彼女でいられる。彼女はそこにキーワードを求め、論理を構築する。批評少女である彼女が文学少女と決定的に異なる点、それは、それは枷、それはコンプレックスであってなおかつその真逆。それはマルチプレックス。彼女は認めることができない。その批評少女性ゆえに単一の意味を忌避してしまい無意識の内にそこに(それしかないという)危険性を付加してしまうがゆえに彼女は還元せずにはいられず、表現して言葉にして、イコール疑わずにはいられない。だって彼女は批評少女、揺らぎと再構築こそが彼女の背骨。喘ぎ悶えた原因、見てしまい、見つめてしまい、抱きしめてしまった理由を感じた温度を自らの内に求めることは排除し、その原因を外に求める欲望からは決して逃れることができない。でなければ足場が崩壊してしまう、いや違う、絶対を求める誘惑を認め、乗りつつ、自らの崩壊をも選択肢として許容しながらそれでも貪欲であるというその覚悟を発動してしまう彼女こそが揺るぎなき批評少女。なんだろう、そんな彼女に共感を覚えるのは欲望に準じているからだと思う。納得したい、説明したい。足りない。足りない。だって足りない。

ことセックスにおいて、対象は自らの気持ち良さ、方法は演繹か帰納か。その点で批評少女と文学少女はカードの裏表だ。しかし男性としては混同しても結構問題ないように思う。以下ってかもう蛇足ね。つまり酒が回った投げたおかわり。あー批評少女はコンタクトレンズに抵抗ないんだなー、みたいな。まあ判断材料として今からキスするけど目は開けててほしいなとかそれくらい言わずとも思う自由は欲しい。確認できない自由を想像上で謳歌するのが材料です。キスはちょっと。でもいいですよ。はあ?てめえ何少女だこら。唇だけよこせこんにゃろう。あー。じゃあ(謎)肩見たいなあそれ脱いでー。そんな感じ。えー、例えば三つの神秘の門。意識、衣服、眼鏡(コンタクトレンズ)、でしょうか。ちゃいますか。とりあえず服を脱ぎながらあるいは下着姿でもしくは全裸で伸びをしたらいいのではないか。