虹色クライシス

 音楽とか本とか、映画とか、進化したんだよねーとベッキーが言った。どういうことですか、と尋ねると今だから言えるんだけどねと3重にチラつくベッキーはほらほらこれと自らを指差したあとに「拡散しちゃう進化形態っていうか」
 今世紀初頭、黒沢清映画への出演が決まったときに彼女はそりゃあ喜んだものだった。頑張ります、とはきはきテレビに出演していた。見たことがある。撮影中の事故で身も心も溶解して消えたとき、自らを3分割することでその身を守ったのだとベッキーは口を歪ませた。すなわちレベッカ、英里、そしてレイボーンとして彼女が言うところの虹色の危機を越え、30年かけて帰還した。でもまだ統合は不完全のようで、それは見れば分かる。
 そのカメラ処分しといて、と職場で手渡された古びたHDDカムを部屋に持ち帰り埃を被ったパソコンを引っ張り出して繋げた。電源を入れたときにディスプレイに映った僕を含む4つの人影。4つ?3人は僕の部屋にいて、みんな僕のことを見ていて、カメラに向かって一斉に身を乗り出してきて恐怖のあまり僕は気絶した。気が付けばベッキーがベッドに腰掛けて、足をぶらぶらさせながらテレビを見ていた。
 気絶してよかったかも、とベッキーは言った。貞子って知ってる?あんな感じで出たからね。
 ベッキーことレベッカ・英里・レイボーンほど自らをメディアのひとつとして認識してる人はいなかったらしい。業界の行く末を常日頃から憂い、どうすれば生き残れるかと頭を捻ってある程度の結論は得ていたのだ、とありあわせの食材で拵えた味噌ラーメンを啜りながら胸を張り、しょぼんとスープに視線を落とす。「いやまさかこんなんになってるとは」
 どうぞお茶です、と冷蔵庫から封を切ってないパックの緑茶を取り出して、うなだれるベッキーの背後、窓の外に目を向けた。妙にいたたまれない気分だった。もちろんそこは真っ暗で、たまにぐらぐらと気持ち悪く煮立つ空。おぞましい悪魔を吐き出す空がカーテンの隙間から覗く。この部屋に越してきたときから変わらぬ風景。僕の世代は青空を知らない。ベッキーが消えてすぐあとに、大騒ぎになってすぐに、この世はベッキーどころでは無くなったのだ。
 そこはちょっと可哀想だと思う。30年かけて戻ってきて、なぜだか僕の部屋でラーメンを食べてお茶を飲みながらしょんぼりとテレビに目を向けるベッキーは可哀想だなって思う。たまにブレて3人に見えちゃうし。
 ベッキーさんベッキーさん、と僕はそっと彼女の手からどんぶりを取り去って、どうやって戻ってきたんですかと明るい調子で尋ねた。テレビから目を逸らさずに、浮かぬ表情のままに、戦って、とベッキーは言った。ベッキーはここで僕を見た。そして一気に分裂した。
 ひとりは両手で何かを構えていた。日本刀を握っていた。ひとりは突起だらけの巨大な砲塔を背負っていた。もうひとりは聴いたことのない言葉を早口で唱えていた。指を複雑な形に折り曲げていた。部屋のブレーカーが落ちて、身体中が発光する3人のベッキーを僕は呆然と見ていた。早口のベッキーがびしっと僕を指差して、ごぼりという音と同時にどんぶりの中のラーメンスープがステルス戦闘機の形に姿を変えた。びっくりして手を離したどんぶりは宙に浮いていた。
 ということがあって、それぞれのベッキーから自己紹介を受けて、30年分の話を聞いて、僕の中でむくむくとある考えが芽生えてきた。彼女なら、彼女たちなら青空を取り戻せるかもしれない。悪魔に捕食される危険を感じない生活、生きる自由を手に入れられるかもしれない。空を駆け虹色を破った彼女なら。あんな悪魔なんて目じゃない化物を倒してきたという強さ、経験、なによりも意志を持つ彼女なら。
 そう思って、その晩、まだほのかに光るベッキーにベッドを提供してソファーに横になって、僕は提案してみた。
 やっつけてみませんか?
 いいよー、と眠そうな声でベッキーはOKをくれた。とりあえず明日やってみようね、と。見た目は僕より若いけれど年上の彼女は自然に僕を年下扱いだけれど、なんだかいいな、と思いながら眠りにつく。自慢じゃないけれど、僕は今日まで2体の悪魔しか倒したことがない。あとはひたすら逃げていた。襲われて、喰われている人がいたらラッキーだなと思って生きてきた。僕は上手くやっている、と思ってきたけれど、それでもずっと、たまに、胸に痛みが走ることがある。幼稚園の武装送迎バスがまるごと飲みこまれかけていたあのとき、必死な顔で獲物を構え駆ける人波に逆らって背にした恐ろしい悲鳴が聴こえることがある。
 明日から、と思う。ベッキーを助け悪魔を倒していく自分を夢見ながら僕は眠った。おやすみなさいベッキーさん、と呟いて。うん、おやすみー、という微かな声を眠りに落ちる直前に耳にして、勝てるな、勝たなきゃな、と思った。
 それは覚えてる。それが最初だ。
 僕は死んでしまったし、ベッキーは結局3人のままだったけれども死ぬ前に見たように思う。6つの腕に抱かれた僕は青い空を見た。魔法使いのベッキー、英里が見せてくれたものかもしれないけれどそれでも僕は全然構わない。ありがとう、と思いながら僕も虹色の力を借りて、こうして分割を果たす。
 何年かかるか分からないけれど、30年もかかることはない。僕にはベッキーの知識がある。僕にはベッキーがいる。彼女が待っている。だから早く戻らなきゃ。お下がりの日本刀、そしてハルコンネンIIを持ち、真似して覚えた呪文を唱える僕たちは頷き合った。そして空を見据える。ベッキーも見た空、渦を巻く虹色の闇を破り、もう一度彼女たちに会いに行く。

空想病@空色パンデミック