アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

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機動新世紀ガンダムX 01 [DVD]

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ピクシー・ワークス (電撃文庫)

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Deadbeat Sweetheartbeat (Bonus Dvd)

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あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

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途中
過去形で未来のことをランダムに語る語り口と宇宙人の文字の謎の同時進行、みたいなのが子供欲しい娘欲しいに匹敵してうおおすっげえだったのがテッド・チャンのあなたの人生の物語でしたがなんだっけそう、最初っから過去形でモノローグという手法はかなり好きです。NaNaとかそうです。で、似たような感じでアヒルと鴨のコインロッカーとかガンダムXとか好きなんですが多分他にもありますがおそらく共通してんのは登場人物の生きている時間が違うと感じられるところではないかと思うわけでして、なんつったらいいのか、過去に生きる、という表現がありますがそれとはちょっと違うような気もしますが過去が過去でしかない人物と過去と現在とが連続、直結している人物が現在において同時に存在する、そんな物語であってそんな物語はたくさんありますがなぜまた上記2作品を挙げたかって主人公どっちじゃいという感じに過去と現在とがほぼ等しい主人公ではない人への作り手の思い入れが強い、と申しますかなんでしょうか、それはかつてあったその人的に物凄いこと、ていうか物凄いことの全く地続きの場所にいるその人物の感覚で言うと現在を生きる主人公はまるで電車やバスに途中乗車してきた乗客のごとく、車体という名の物語に途中で現れた脇役が本編の主役、脇役、過去がある人とでかい乗り物が一体化してるって分かりやすくて好きです。好きなもんの一つです。エウレカとか。や、無くてもいいんですけどね、バスってのはアヒルと鴨の主人公が麗子さんをバスで見るとこからの連想だし。比喩だし。だからその何かって、繰り返しになっちゃいますが主人公の登場が物語を開始するわけではなく、とっくに始まってるか続いてるか過去既に存在した物語に主人公は介入する、そういうの。ほぼ全部そうじゃんって言ってしまえばそれまで。確かに。ただ、そんな主人公を脇役としか見ずに、決して自分の物語の主人公とは見なさずに、そういう視点の登場人物がいたらより好みっす、という程度。大きな過去を匂わせる人がいるかいないかってのはこの人にとっちゃそうだよなあ主人公途中乗車の脇役みたいなもんだよなあって思わせる登場人物が誰かこう1人か2人、いてくれ、みたいな。あー。とある魔術の禁書目録の最初のほうとか最初とかですね。アウレオルスとかまじ可哀想。一番言いたい事多分1巻で全部言ってしまってる。アウレオルス可哀想だけど、残滓というか、インデックスの退場解呪と同時に別の話を始めざるを得なくなったというかそんな印象。自分色に染めるというか相手の認識引っくり返すことでしか結末に辿り付けない物語、主人公、イマジンブレイカーは不幸です。不幸と思う。やっぱりそれしかないのんか。自分の頭を握るかそもそもの差異を生む、幻想を生じさせる原因である大本の何かを握る方向に進むのか。目が離せません。

We have seen it all. We've been through it all together.
We've been through the fire, and you gain your strength from me.
We have seen it fall. We painted the town red together.
We're still standing tall as I gain my strength from you.


Juliana Theory / "We Make the Road by Walking"

抱えた過去が長ければそれはその人の物語が強い事になるのかって言えばそういうわけでもなく、いや強くはなるんだが、えー。その強固な物語にどれだけ強烈に横槍入れられるかてのがなんだ、なんでしょう、カタルシスでしょうか。推進力ですか。ちゃいますか。

"15歳なんて半分子供だ" ジャミル・ニート
"でも半分は大人だよ" テクス・ファーゼンバーグ

引き締まるのは主人公達よりも年齢が上の人の視点で主人公を見たときの描写か。レイドバックした綺麗な女子大生が表紙の女子高生にハートマン軍曹のとこか。飲み会のとこか。
物理法則を全部逆から考え始めて結論一緒、というのもおもろい。演劇が引き合いに出されるのもおもろい(知ってることを演じるっていう)始めないと終わらない、終わるから始められる、始まりがないと終われない、終わらないと始められない。
バスの例で言うとそうですね、しつこいですね、でもまあ、車庫とかターミナルとか停車場とか無いとバスは走り出せないわけです。途中で乗ってきた客は道順を変えられない(降りることしかできない)(あるいは、最後まで行くか)(でも、最初から乗ることはできない)先に乗っていた人であり、途中で乗ってきた人が降りても降りない人であり、運転手、あるいはバスそのものである主人公で始点が終点でもあるバス路線。とりあえず今、そんなイメージ。エイリアン。あなたの人生の物語。サイクル。ライフサイクル。バスを乗り換えることは可能すか?それは他の誰かの物語の登場人物になるということ?始点が非存在、終点も非存在なら、一回りの輪でもあって存在か非存在のどちらかを認識できないとただのフラットな直線で、でも、フラットな直線だとしても、途中乗車、下車を見ることができたらもしかして、と思うかもしれなくて、もしかして自分もそうなのかもしれない、だいいち、自分はいつこのバスに乗ったのか。選ぶことはできる。それは知っている。降りるという選択肢はある。降りたらどうなるのか。違うバスに乗るのか。そのバスの路線はどうなっているのか。また同じバスに乗ることはできるのか、そのとき先に乗っている人がいるとしたらそれは誰なのか。主役なのか。
エイリアン観察する為来た言います。何を観察するのか。結果を知らなければ何ひとつできないエイリアンです。観察したことで何がどう変化するか知ってなきゃ観察開始できない。一方通行であることから時間の存在を知った人類ですが、これも逆であるとしたらどうでしょうか。一歩通行ではないことから時間の存在を知ったエイリアンです。互いに時間の存在は知ってます。でもアプローチが間逆です。時間は存在するが、でも一方通行ではないとしたら。一方通行ではない時間における観察とは何か。意味も逆ですよ。観察したから観察対象が変化する。観察対象が変化したから観察する。エイリアン言うでしょう。「観察しにきた」目的は?「無い」へ?「あなたたちが何かした。何かになった。だから観察しにきた」変化するから観察してるんじゃなくて変化したから観察してるわけで、原因はおれらにあるわけじゃなくて。んー?違うな。これは違うな。出発点が逆だとしても到達点が一緒なら、観察って行為で邂逅してるその場所が到達点であるわけで、地球が、人類がその地点に来た。だから観察してるのか。そうなんか。違うような気がする。気がする。