夢や非日常を、現実と日常の逆だと思っているのなら。

僕は天使の羽根を踏まない

僕は天使の羽根を踏まない


麒麟が夏目エリスの家の跡地に行くまで、は尋常じゃなくいい。なんでだろうか。
好きなものは年月に年齢に反比例してそうでもなくなっていく、というのはあると思う。飽きる、とか他の言葉を使ってもいい。でも、気が遠くなるほどの年月を経てもずっと好きなままでいるものがある、そういう人がいる。好きなまま、そういう時期がある。その時期が終わらないことがある。
って、それをずっと追いかけてる。好きだったそれにまた会いたいから。感じたいから。そこに戻りたいから。繰り返したいから。不可能なのに。覚えている限り無理なのに。
「人に飽きるって言葉がよくわからない」と言った人がいて、それは、だから。
この刀は夢しか斬ることができない、だから斬れてしまった、みたいなのが最後のほうにあって、そこつれー。2番目につれー。1番どこだろう。1番じゃないんだ。どこだろう。
好きだったものが日常になってしまったから好きじゃなくなった、という言葉に対して、いや俺はちょっと違うなと言うとしたら、日常として好きだった、だからそれよくわからないなあ、と言う?
あったでしょ非日常、と言われたとして、それが日常になってしまうんだよ、それが悲しいんだよ、と。もしも、どうしても非日常という言葉を大事にしたいのだとしたら、俺は今でもずっと非日常のままだ、と言うのが正直なのか。逆なのか。
そうじゃなかったときのほうが非日常でしょう?あなたの言う非日常を知った今だからこそ言える。ずっともの足りないと思ってた。ずっと欠けてると思ってた。あると思ってた。そして、それがあった。
だからやっと日常に戻れた。
だから非日常なんて求めたくない。それは日常を知った今じゃもう戻れない。
日常とか、現実とか、そういうものは非日常や夢に比べて劣る、そういう考えがあるよね。
非日常とか、夢とか、欲するのは、それが日常に、現実になって欲しいから?
結局、そうでしょう?
違う。
かつて日常だったものを非日常だと思って今の日常を否定するのはおかしくないか?どうしていつか日常になってしまう非日常を求めるんだ?違う。
違う。どうして飽きないんだ。終わらない想いにどうして飽きないんだ。終わらないから飽きないんじゃないだろう?終わらないから飽きるんだろう?でも、違う、と言う。
私は。
俺はまだ飽きてない。私は非日常を求めない。
だっていつか終わるから。終わらない今があなたの言う非日常だから。
俺に取ってそれは日常だから。
だから。
飽きるとすれば、終わってから。
違う?
違わない、と思う人はいる。だから、違う、と思う俺と同じくらい俺はその人を否定したりしない。しない。