いつか、勇者だった少年 (朝日ノベルズ)

いつか、勇者だった少年 (朝日ノベルズ)


多分解説のせいだと思うけれどあれ、ブギーポップの一番最初の、マンティコアに恋した男の子を思い出して懐かしくて、あとは上遠野浩平の確かに何かあった、何かした、でも覚えてない、忘れてる、みたいな人たちの、そういうモチーフ(は、経験してる。覚えてる、の表側としてのイマジネーター(凄え名前)になにやらされた人たちとか)(ミンサーとかナイトウォッチシリーズとか)(文脈として裏側はなぜだか常に悲しい)。西尾維新、いや、上遠野浩平西尾維新を引き合いに出すほどにエポックメイキングなという流れで解説は書いてあって西尾維新、確かになって思って、さてどこだろう、確かに、と思う思う俺も、と。分かった。クビシメロマンチストの葵井巫女子といーちゃんではなかろうか。あの巻に出てくる全員だ。あるいはのちのちみいこさんにぶん殴られるときのいーちゃん。これ、で言う主人公とか主人公じゃない人たちね。なんとなくね。こちら側の全員主人公っぽい小説なのだけれど。そういや境界に突っ込む直前「この世界の住人は」て強調されてる部分はなんなんだろう。あれちょっと気になった読んでて。なんであそこだけ?
悪役ってのは、と、あるとする。正義側では受け入れられない価値観を推し進めようとする人たち。信じる人たち。世間において自分はマイノリティーだと自覚して、その意味で属してるのは世間、でもその世間を信じたくない。マジョリティーをなんとなく、あるいはどうしても信じられず、自分の肌に合うのはそんな世間に反する、いや。そもそも正しいのはこちら側だと最初から、いつしか思うことができる。自分が間違っているのならその世間の枠組みを疑おうと思う、疑えるけれど、それは、正しい世間に反しているから、相容れないからじゃない。だって正しいのはそもそもこちら側だからと結果的に、最初から、思える。だから間違ってるのはあっちなのだから。先立つのはこっちだと。そう、反証や引き合いに、正しいとされる側を持ち出す必要すら無いと思う。だって間違っている。数は問題じゃない。もはや相手すらいらない。いるとするならば、自分が正しいと相手より思うことができたらそれはそれで良い。ああやっぱり自分は正しい、違う。なんかこいつら、違う。自分はやっぱり違う、ああいうんじゃない、あいつらじゃない、そう思える対象として。
正誤を現実と非現実で分けるのは、常にその世間で正しいとされる側。ならば、もしもそれが我慢できるなら、待つしかない。そういう手段はある。きっかけがあれば行動するのだから。マンティコアが現れたように、かけがえのない友人の家が焼け、友人が焼死したような何か、そんな特別なきっかけが。絶対に現れる。そう信じる。
なんかね。一度は同じことを信じた人が、とか。それでも、とか。超好きな『カナリア』って映画を今ちょっと思い出した。あれ大好きです俺。ないしは『月光の囁き』でローファー田んぼにぶん投げるとこ。五指に入る映画体験。あと前書いた別の小説に対する感想とか思い出した。違うような気もするが似てるような気もする。
http://d.hatena.ne.jp/fiddle26/20100223/p2


浅井ラボ / 『ロリの空
超好きですTOYJOYPOP。比較対象いらなくなったら求道者、宗教者、とかなんかなー。すっげえ何かの域を極めた人、極めつつある人がそんな感じな感じ、画家とか、小説家とか、スポーツ選手とか。いやまあそういうなんとなく芸術的な人たちとか。アーティストが。しかしそこまで行くとアート、っつーとってやっぱアートって言葉は工芸って感じが否めない。なのでなんと発音すんのこれなAestheticsって美学、良く知らない読めないからよりそれっぽい。それっつーのはその。そうそう。なんかね。処女の生き血しか吸えない、人妻しか愛せない、そんな。違うけど。なんすかね。色々とこう、例えば宗教を始めるに当たってまずは教義考えよう、みたいな。だめじゃんそれ、みたいな。