長岡輝子さんと初めてお会いしたのは、私が高校2年、16歳の時です。山形県民会館で上演された文学座の公演で、テネシー・ウィリアムズの家族劇「ガラスの動物園」を見に行きました(昭和46年)。長岡さんが演出され、母親のアマンダ役としても出演されていたのですが、当時、女性で役者もやり、演出をされるなんて、本当に珍しかったんです。

 アマンダ役はふつうだと暗くてギスギスした役として描かれるんですが、長岡さんは明るく、かわいらしく、ユーモラスに演じられていて、とてもリアリティーがあった。そして母親のアマンダが娘のローラの肩を抱く場面は、女性の視線から見た演出として、本当に素晴らしかった。

 「ガラスの動物園」を見終わった後、私は号泣して客席から立てなくなってしまったんです。終演後、突然、長岡さんの楽屋を訪ねてしまったのですが、長岡さんは初めて会う制服の高校生と1時間も話してくださった。私が演劇をやりたいと話すと、長岡さんは「役者に学歴は関係ない。高校を卒業したらすぐに東京に来たほうがいいわよ」と言ってくださったんです。その言葉がなかったら、今の私はなかった。長岡さんのその言葉で大学に行くのをやめ、演劇の道に進みました。

 その後、30歳をすぎたころに、長岡さんとフジテレビのドラマでおばあちゃんと孫の役で共演させていただいたのですが(63年「なつかしい春が来た」)、その時に山形でのことをお話ししたら、長岡さんは「私もいいことを言うじゃない」とおっしゃっていらした。

私が文学座で初めて書いた芝居「月夜の道化師」(平成14年)の公演の時、長岡さんは90歳くらいだったでしょうか、足が悪いのに紀伊國屋ホールに見にいらしてくださったんです。その時に「これからもこういう本を書きなさい」と言ってくださり、私は「はい、頑張ります」と答えました。その時のことがとても印象に残っています。

 「ガラスの動物園」はアメリカの芝居ですが、日本人でも身近かに思える“無国籍”な演出で、高校生の私にも親しみが持てたし、その演出の方法は今、私たちがしている芝居に通じるものでもあると思うんです。

 長岡さんは新しい演劇を作られて、リーダー的存在でした。長岡さんのようになりたいと、私はこれまでずっと思ってやってきました。そんな方が亡くなられて、まだ、信じられません。長岡さんのおかげで今の私がいます。本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でしたとお伝えしたいです。(談)

【追悼・長岡輝子さん】渡辺えりが語る「16歳で出会い、導いてくれた」
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/101023/tnr1010231201006-n1.htm
如月小春の葬式でめちゃくちゃに泣いてたって話を聞いたことがあってそのエピソードが好きだ。俺もガラスの動物園は本当に大好きだ。
しかし日経新聞の文化往来に演劇関係書いてる人は一体何者なんだろうって毎回思う。驚異的だ。
"長岡輝子さん、生涯貫いた反骨精神"
おお本文……。切り取った紙面筆写したろかと思ったくらいなので、ありがたい。