続き
昔の日記を読んでそうそう。行動の主体はどこにある、て小説だと思ったのだった。で今、映画見てつらつら思うのはこう、殺すのは銃を握る操縦桿を握る自分の手、とキルドレは思う。で、殺すのは自分、と思うのがキルドレ以外。大人じゃない。キルドレ以外の全人間。で、行動の主体が自分の身体の一部ではない、自分、なのかもしれないと思った人からキルドレである自分に疑問を抱く、というか嫌になる、死にたい、と思うようになる。なんでかって、頭ではそう理解しても相変わらず主体は自分の身体の一部にあると思うから。自分の主体は自分に無いという虚無的な何かを真の意味で覚える。自分はキルドレだから永遠にそう実感することはできない。永遠を体現してるのにその永遠でできないことを知ってしまう、と。多分。て意味でおそらく過去最長にキルドレなのが草薙で(それは子供を産んだってのが関係してるのかもしれないし初期にあまりにも自我が強烈/自己を確立しきった大人、なティーチャに会ったからかもしれない)(わかんないけど)(彼女はバグみたいな人)基本的にキルドレは受け身で、総受けなのが草薙。状況によって最適なのを選択してるだけで自分がそうしたいからって訳じゃなく、なので原作時間軸における終末なスカイ・クロラの草薙はもうボロボロに近い。自分で何かやりはじめるとまずい(そんなキルドレは他にいない)。
映画ではこの主体の問題をまじですっぱり切っているので、なんだか無感動な人=キルドレという印象で、感情を炸裂させる人から死んでしまうような印象で、それにはだいたいティーチャが関っていて、もしかして手に入らない主体を持った人=絶対に撃ち落せない人、て感じで感情がざわめくのかもしれず、なので、えー
あー
正直原作大好きだし映画もまた、なのでだらだらと続く。また続くかもしれない。繰り返しの話とか。
なんで繰り返すか。おそらく延命法だと思う。過去の自分と違う何かをやり始めると寿命が縮まるのがきっとキルドレだ。草薙をあれできなかったカンナミがあれしてしまうのもそうだし、そこには主体が関ってる。
のでは。