パララバ―Parallel lovers (電撃文庫)

パララバ―Parallel lovers (電撃文庫)


だよね例えば好きな人とか恋人とかが死んでしまって人はどうやってそのことを知るんだろうとか思うことはあるが、友人か、親か。携帯電話を見てそこにある全員に連絡するのか。仮に例えば俺が親だとして、子どもがいて死んでしまったとして、そういうことするだろうかとか思い、親元から離れて一人暮らしをしている人同士、いや関係ないか、誰かと誰かが付き合っていたとして、片方が亡くなって、そりゃいつかは知ると思う。連絡がつかなくなって、家まで行ってみて。誰かに電話してみて。知らなかったらどうする。家。共通の知人。問題は絶対にタイムラグがあるってことで、灰になって、土の下にいる時点で知る可能性はある。なんだろう。枕元に立つ練習が必要だ。死亡通知サービスとかねえかな。俺の鼓動とサーバーがどうにかしてるような。死んだらそのことを伝えたい人にメールを一斉送信。あるいは前もって録音された「ごめん、俺死んだ」みたいな電話。流行るような気もする。けどなんでごめんなんだ。死んで申し訳ないって思う人そんなにいないけど俺は、例えば、あの人(誰でもいいけど)が死んだそのとき、そのことを誰か俺に伝えてくれる人はいるのだろうか。サービスとして。申し訳ないってなんだろう。あれがしたいとか言ってたそれが全部反故になってごめん。いなくなってごめん、もう会えなくなって、いなくなってしまってごめん。サービス、枕元サービス、虫の知らせでもいいけれど、いやよくないよくない、それはこう、もっとはっきりとしたこう。でもタイムラグがあろうがなかろうがそれは問題なのか。単に心の問題、そのときに知りたかった、そばにいたかった(あるいは第三者から聞きたくなかった)っていう心の問題で、相手がもういないって事実には時は関係なく、だから絶対に相手の葬儀に参列する相手の死をすぐに知るであろう人物と生前に打ち合わせをしておく必要はあるだろう。あの人が死んだら俺に教えてくれ。結婚はしたほうがいい。相手の親にも一度は会っておくべきだろうという話はある。なぜかって、上記の理由に尽きるって話は聞いたことがあり、それはその通りだと思う。誰よりもその人と長く付き合い誰よりもその人のことをよく知っている、錯覚かもしれないけど、錯覚のままでいい錯覚、なのに、一般参列者として葬儀に行くのか、とか考えると、というか結婚でもしない限り親族でなければ一般参列者なのだけれど、それでも、と思うことはある。心の問題。命日とか何回忌とか?好きなときに行けばいい。大事になのは行こうって思うことで、その人のことを考えるってことで、今ここで亡くなったその人のことを考えようが墓前でその人のことを考えようが大差ない。供養ってのは忘れないってことで、思い出すってことじゃないか。違うか。でも、好きな人とか、付き合ってる人が死んだら、何日も何ヶ月も経ってから誰かから聞くとか、可能性はある、俺が知ったのは今日だったっていうそれだけで、その人が何日も何ヶ月も前に死んだ事実は変わらないとか、なんとなく取り返しがつかないような気もする。でも、それは、分からない、場合による。もう一生あいつに、あの人に。彼に彼女に会えないとかどうなんだろう。そうか分かった。てのはこの小説の疑問がひとつだけあってそれは俺が読み飛ばしただけかもしれないってずっと思っていたけれどようやく。なんで。なんで一哉は最初に電話を掛けたのかって。もう死んでしまったのだから繋がらないって分かってても、繋がる訳は無いって分かっていても、もしかして繋がるかもしれないっていう、それか。それなら分かる。そしてそうなんだろうと思う。もういないって分かってる。それでも、っていうことはあるように思う。もしかしてじゃない。この小説はそのもしかしてを描いている。だから。これは、小説で、願望だ。もしかしたら。でも残酷な話でもある。だって。いない。いないことを再確認する為に、小説一冊分。

死んでしまった人間を生き返らせることはできません。当たり前のことではありますが、その当たり前のことを確認するためにわざわざ理屈と物語が必要で、だからこそミステリが書かれ読み継がれていくのだと思います。本書は、そんな死者のためでもあり生者のためでもある物語です。

三軒茶屋 別館 『パララバ―Parallel lovers 』(静月遠火/電撃文庫