なんとなくおそらくきっと多分多分。
そんなん皆やってるし歌われてるしなによりも経験してる。いつか。確実に。でもそれなのにって、いう。


セカイ系ってなんすかね、と最初にエヴァを見て10年くらいたってまた見てしまって思う。エヴァってなんじゃい、と、思いつくままに書くこれからの記述はおそらくどこかで見たことがある意見ばかりだろうけれどもそれでも、
ヒロインの微笑みが、ヒーローの頑張りが物語に何の影響も及ぼさない、そしてそれはとても悲しい、と昨晩酔っ払って書いて今、何が悲しいのかと考える。10年近くずっと、セカイ系ってのは、それは、
ヒーローとヒロインの2人の世界がイコール全世界。ヒロインの危機が世界の危機に直結する物語。
と思ってきたが例えばヒロインのために頑張って、頑張って、頑張った結果として小説の最後で、漫画の最後で、アニメの最後で世界が完成するような話。
というのはもちろん大げさな話で分かりやすい話で、そこが高校とか中学とか大学で社会で、最終的に2人は仲良くなる、とかそんなんでもいい。
相手が泣いたら世界も泣いてるように思う。
ヒロインの死であったり消滅であったりしたものが実際に結末において世界の崩壊、になってしまうのでエヴァだったり最終兵器彼女だったりはセカイ系とされていた気がする。
でもこう、ほんとそうか? と今更にして。
分からない、けれど調べずに。
自分と君だけでいい、他にいらない、という考えは何もこの2作品からいきなり始まったわけじゃなく、主人公がいてヒロインがいるならこの考えはずっとあった。この2作品が特別だったのは、いいのは、きっと、相手の為に何をしても実際の世界の趨勢とは全く関係無いとやってしまったからだ。
そんな気がする。
一見、シュウジの行動で、シンジの行動で物語が進んでいくように見える。でも、シュウジが何しようがシンジが何しようが結末は変わらない。彼らの頑張りは世界の維持に何の貢献もしない。
つまり、10年近くずっと勘違いしていた。アホだ。
セカイ系ってのは、実に真っ当な物語だ。それはヒロインの危機が世界の危機に直結しない。ヒロインを想うヒーローの頑張りが世界とは繋がらない。つまりヒーローの頑張りがヒロインに届かない。そんな物語。
きっと、それまではずっと届いてきたんだろうと思う。ヒロインに何かすることは世界に何かすることと同じことだった。頑張れば反応があった。報われた。それが、そうじゃない、と示された。世界がなんとかなってもヒロインはなんともならない、そしてその逆。
2人の世界=全世界のはずなのに。そう思わせておきながら、相手の為にやったことが世界に反映しない。
ヒロインが欠けても世界は終わらない。
それがセカイ系の物語。
だから、っつーかなんというか、シンジは可哀想だな、と思う。今も思う。綾波に笑ったらいいんじゃないと言って綾波は笑うけれど、シンジが何か要求したら応えるように、と前もって言われてたんじゃないの、と、今更に思ってしまって、それは可哀想だ、と思った。そこから。これ。頑張れば振り向いてくれるっていう幻想を、創作物なのに提供してくれない。主人公が子供なのにやってくれない。それまでは年上の登場人物だけの特権だった「頑張っても手に入らない経験」を主人公に与えて。くれて。しまって。
けれど、それもおかしな話であって。そんなことは皆分かっている。
当たり前の話で。
と、ここまで書いて。また。
セカイ系の世界ってのは君と僕の世界、と言われてたと思う。でもやっぱ、違うよね。君がいなくても続くのが世界、それを僕が知るのがセカイ系。最後に僕が手に入れる、僕と世界しか残らない物語。
うおお……(しょっぱ)。しかし、しかし。総括。じゃない。
で、ウィキペディアなりはてなキーワードなりを見てみて。
中間、媒介が無いってのはなるほどなーと思う。でもこう、俺としては君と僕しかいなくてもいいと思う。イコール世界でも構わないと思う。
だってそこから、なんだ、あれだ、ビリーさんかて曲作ってますね。タイトルだけ。それっぽい。なんだっけ。ねえ。あれです。あれ。スタート。違う。ビギニング。ザ・ビギニング・イズ・ジ・エンド・オブ・ザ・ビギニング。逆? いんだけどね。どっちでも。だってそろそろ、いい加減に。やっと。という、
ねえ。